『環境人類学を学ぶ人のために』[bk1]/[Amazon]

環境人類学を学ぶ人のために 入門書としてデザインされているだけあって、極めて薄く、すぐに読み切ることができるであろう。第一に、現代の環境人類学に至る学説史として粗削りで、いくつかの重要な問題が欠落しているという意味で不十分である。また、本書で与えられている事例は多岐にわたり、いずれも興味深い問題を提起している。それだけに個々の問題については十分に掘り下げられているとは言えない。とは言っても、特に7章以降で、現代の「環境人類学」が不可避に扱わざるをえない一連の問題(リスク、生物多様性知的所有権、人口、環境保護運動と現地文化の関わり、エコロジカル・フットプリントなど)を扱っていることは評価できる。おそらく最も重要な、多くの大学生や大学院生が直面する問題は、その後になにを読むべきか、ということであろう。本書の最後には邦文を含む読書案内が付記されているが、果たして本書の、特に後半で喚起されるような問題をより深く考察するのに役に立つ文献がその中に幾つ含まれているかは疑問なしとしない。むしろ本書を端緒として、人類学に対する要請の国際的なコンテクストと国内的な議論のコンテクストのギャップを埋める作業が必要であろう。
 人類学が直面する問題は非常に再帰的である。象徴的な事例はフェイステリアという病原体を研究する資金潤沢な免疫学研究チームに加わった人類学者の事例である(p.137)。この人類学者は、地域の人々がフェイステリアによる病気に感染する可能性は極めて小さく、公衆衛生という観点からは地域の食品加工工場で低賃金労働者が勤務中に負う怪我のほうが遥かに大きな問題であるという結論に達した。しかしこれは、資金提供者も、研究チームの他のメンバーも、メディアも望まない議論である。かくしてこの、ごく日常的な、容易に是正できる「取るに足らない」問題は構造的に無視され、妖しく蠢く未知の病原体に苦しむ未開の人々と、それを救済するために英雄的な努力を続ける先進国の科学者たち、というイメージだけが強化されていく。こうした問題にあらがう、日常性の科学としての人類学をどう構築するかは、本書の提起する第二の課題であろう。